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史跡と伝説

史 跡

<長光寺山古墳>

 東西二つの石室をもつ四世紀初頭の山上古墳で出土品は県指定の文化財。特に碧玉製鍬形石は日本最西出土で優秀な逸品。

<妙徳寺山古墳・経塚>

妙徳寺山古墳は、県下でも希少な初期の前方後円墳です。また、妙徳寺山経塚の出土品の内、白磁四耳壷外17点が県の有形文化財に指定されています。

 

<平松古墳>

 横穴式石室をもつ6世紀末期古墳。複室内部の遺構も整い古くから「鬼の岩屋」などとよばれています。

<青木周蔵生誕地>

 青木周蔵は弘化元年(1844年)小埴生で生まれました。外務大臣を務め、条約改正など明治外交に大きな足跡を残しています。

<洞玄寺毛利家墓所>

 厚狭毛利家の第2代元康(毛利元就の八男)の法名(洞玄寺殿)を以て名付けた洞玄寺は、毛利家の菩提寺として、二世紀半、毛利家一族が祀られてきました。

正法寺十一面観音菩薩像 <松嶽山正法寺>

 標高324mの松嶽山にある真言宗の寺院。寺伝によると正歴二年(991年)に花山法皇が諸国を巡幸される折、松嶽山に光明の輝くのを見、真にここは四神相応の霊場、一仏安養の浄域であると嘆賞され、手ずから十一面観音菩薩の木像を制作してこの寺に安置されました。
 又、豊田町華山の豊浦山神上寺、美祢市伊佐の桜山南原寺とともに長門三霊山と仰がれ、いずれも花山法皇御自作の十一面観音菩薩像を本尊として安置しています。

<鴨神社>

 『鴨社略縁起』によると、延暦七年(778年)に沓に神祠を建てて、百済の聖明王妃を祀ったのが起源と言われています。寛治四年(1090年)に厚狭庄公田30町歩が京都の加茂社へ寄進されました。この立庄によって、加茂御祖社を勧請して厚狭に鴨神社が創建されたと考えられています。後に現在の位置に移したと社伝に記されています。

厚狭天満宮 <厚狭天満宮>

 厚狭川の流れに沿い老松が水面に濃い影を映し、境内には謂れの牛が本殿を見守っています。夏天神まつりでは、花火や子ども相撲、秋天神まつりでは、大行司・小行司、裸坊でにぎわいます。

目白不動明王 <清安寺>

 文永三年(1266年)創建の真言宗不動寺(本尊は目白不動明王)に始まり、元和元年(1615年)には、真言宗から浄土宗へ改宗し、寛永の知行替によって福原元房が鴨庄に配地となると、元房は母清安大姉を同寺に祀り、寺号も清安寺と改められました。


伝 説

和泉式部 あらざらむ この世のほかの 思い出に
いまひとたびの あふこともがな (小倉百人一首)

[和泉式部伝説]

 和泉式部の墓は、円形に一段高く盛土された上に建てられています。式部は娘の小式部内侍を丘上の松原で安産されたので、その松原は『愛寝の松原』と呼ばれています。
 和泉式部は、二十歳ごろに橘道貞と結婚しますが、為尊親王と相愛の仲となってしまいます。ところが、親王は一年余りで病死。その一周忌も終わらないうちに故親王の弟敦道親王の求愛を受け入れてしまいます。二人の間の常規を逸したほど激しく、物狂わしい恋愛の経過は、「和泉式部日記」に刻明に綴られています。しかし、数年経ってまた親王の病死に遭うという悲恋の生涯を送ることになります。また、式部は歌人として知られ、情熱的で奔放で、行動の裏付けがあるから真率で実感に富む歌風を作り上げています。

安倍貞任 [安倍貞任伝説]

 前九年の役(1052〜62)で、衣川関を捨てて敗走する安倍貞任を源義家が矢を番えながらしばし呼びとめ「衣のたてはほころびにけり」と歌いかけると、貞任はふり返り「年をへし、糸の乱れのくるしさに」とその上の句をつけたので、義家は矢を納めたという有名な話があります。貞任はその後さらに北に走り、厨川の柵にたてこもって抵抗し、ここで戦死しました。
 この貞任の塚がどうして山陽町にできたかわかりませんが、二段の台石の上に墓標が立てられ、この墓の西南約50mの山麓墓地に墓がもう一基あります。




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